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想いが形を作るのかな ~旦那の病と母の死とビスパに行った話~ @2015
   これはもうずっと前に保存してた日記。
恐ろしいほどタイムラグがあるので、随分前の亡霊のようなものですがここで完結させたくて投稿します。



VAMPSオーラスも終わり、ビーストパーティの発表があり、しばらく寂しい思いをしながらも海外で戦う彼らを遠い日本で応援していたファンたちをねぎらうようで飽きさせないスケジュールが明らかになりました。
そして、一気にL'Arcの夢州LIVEって、、、心臓に悪い。
(とか書いて、書き終わらずほったらかしにしている間にそのビーストパーティも終わってしまい、先ほどanationも終わってしまいましたよ。)
さて今から書くのはただの愚痴です。
この類いを発信すると、受け手も恐ろしいほど嫌な気分になるのも重々承知なので、私的恨みの記録で心汚されたくない方は回れ右でお願いします。
そもそも、旦那の入院でさいたまスーパーアリーナを諦めてたはずの私ですが、旦那の状態が精神的にも身体的にも落ち着いてきたことを感じ出すと、
「あれ??日曜日日帰りなら行けそうじゃね?」
とか思うようになってきました。
返って入院してくれていた方が私的に出やすいんじゃないかな。とか。。。
30日のチケットは譲り先が見つかりましたが、31日の分は見つからず最後まで手元にありましたし。
これは、どこまで飢えてるんだろうね。なんて自嘲してしまいそうなレベルで。
そんな脳天気な私の後頭部を張り倒すような電話が25日の夕方かかってきました。
兄からで。
おかあさん、心臓が止まってしまったって電話が入ったからすぐ行ってくれん?オレ仕事すぐ片付けていくから」
「は???」
「だから、蘇生処置して一度は戻ったんだけど、すぐだめだったって。。。」
「嘘だ。うそだよ。そんな。。。」
とにかく、取るものも取りあえず実家に行こうとした私の慌ただしさをいぶかる姑に事の顛末を話すと、自分も「さよなら」を言いたいから連れて行けという。
なにを考えてるんだ!?
実家の母の死を「すぐ駆けつけてバカみたいに号泣して優しい人を演じる」イベントにするんじゃねぇ!!。
そして、なんであんたは生きてるんだ?私の母は死んだのに。
何が何でも着いてこようとする姑を振り切って運転しながら、私や私の実家を思いやるわけでもなく自分の感情を優先する傲慢ぶりにその類いの感情に支配されていたわたし。
母は聡明な人でした。
自分にも他人にも厳しい人でした。
おさない頃からあまりにたびたび暴力を振るわれたのでいつも顔色うかがって生きてきました。
でも、正義感と自分の尺度に自信を持った人でした。
そして、私を愛していることを言葉以上に態度でわからせてくれる人でした。
HYDE関係で思い出すのは実家に行くと嘘をついてZEPP NAGOYAに行ったとき、姑から実家に電話があってとっさに私は買い物に行ってもらってると嘘ついてくれたこと。
二度とダシに使うなとめちゃ怒られたけど、帰ったら旦那に「頭の良いおかあさんで良かったね。」と言われて何だか誇らしかった。
そんな母が骨折をきっかけにみるみる母ではないような人に変貌してしまったときの、もう、この世に母は居ないのだという喪失感については
I'm so happyと思える人生←こちらにて書かせて頂きました。
カーステレオからMY FIRST LASTが流れてきて、「物質的な死」と「精神的な死」では本人の持つ感情としてはどちらに寄り添えるんだろうとおもったり、I'm so happyのようなこの世に愛を注ぐような感情は芽生えたのだろうかとおもったり、とにかく運転する腕がぶるぶる震えるくらいカオスな思考に支配されていました。。
母が入所していた施設は老人型入所施設なので「医療行為は行いません」と入所の時言われていました。
それ故パーキンソンの治療はストップしていて症状の悪化は何となく気づいてはいたんですが、投薬に伴う幻覚のようなものも遠のいていたのでおかしな事もあまり言わなくなっていたのです。
最期をここで迎えることはないと言われていたのに、なぜ施設で死んでしまったのか....。
個室に移された母の遺体のそばで兄嫁さんが号泣していました。私が入ったことに気づいてこちらを向いた顔の、今し方自分を連れて行けと私に食い下がった悲劇のヒロインみたいな表情だった姑の顔とのあまりの違いにこみ上げるものがありました。
この人たちは良い関係だったんだな。と。。。
母はこの人が大好きでした。
「お義姉さんがあんたじゃなくて良かったよ。」が口癖でした。
「朗らかで、優しくて、おおざっぱだけど、気の利かないところが意地悪じゃなくてさっぱりしたB型」という評価で。
細かくて口うるさくてネガティブ思考で自尊心の塊みたいだった母には救いになる人だったんだと話を聞くたびに思いました。
「お義母さん、まだ暖かいんだよ。寝てるみたいにしかみえないよね。」
お義姉さん、触ってくれたんだ。。。。
私は触れないよ。姑の遺体なんかに。。。。
「おかあさん」
ふれた肩は言われたとおりまだぬくもりがありました。
苦しかったんだろうな。。。。
発症から30分で死んでしまう誤嚥だなんて。。。。(死亡診断書には心不全と書かれていたけれど)
帰りたい帰りたい
といつも言っていた自宅に一晩安置して翌日通夜翌々日告別式になりました。
12時近くに帰宅した私に母の死に際の話を聞き出した時の姑の
私もそんな風に楽に死にたい
と言った言葉を私は忘れません。
楽だったなんて誰も言ってない。どれだけ苦しかったかなんてあんたにわかるのか????
もう呪詛の言葉しか私の頭にはありませんでした。
「舅が姑を迎えに来ないのは、この浅はかな思考回路が苛立ちを与えるからなんだな。」
私の母を連れて行くくらいなら奥さん迎えに来いってば。
そうしたら一気に小姑とのこじれまくった相続も片が付くし、何より私が平和になる。
その後通夜告別式にもしっかり親戚に連れてきてもらい、棺の枕元で泣く姿に虫ずが走る思いをしました。
私と子どもたちはだまされません。
この人がこんな風に泣くのはいつも自分を演じてるとき。
私の母が死んだって悲しいわけはないのだ。
あれほど周りに言ってきたではないの。
母の悪口さんざん吹聴してそんな母に育てられた私がいかに根性が悪い嫁なのかを。
とにかく色々あったけれど、旦那入院中にあっけなく母はこの世から物理的にも居なくなってしまったのでした。
すでにそれから3ヶ月経過しているわけですが、ふしぎと母が母でなくなってしまったときのような衝撃はありませんでした。
母の死をあのとき感じ、ようやく弔ってあげられる完結したような充足感もほのかに感じていました。
形がなくなってしまうのは悲しいことでしたが、それより私は心のよりどころを消失したあの日が本当の告別だったと思ってしまうのです。
今の私が母を思うとき、思い浮かぶのはどこまでも理路整然と道を説く母、強くて逞しくて打てば響くように指針を指し示す母なのです。
生きているとき母を思うと施設に入っている訳がわからなくなってる年寄りが浮かび、切なくて悲しくてやるせない思いばかりが襲ってきましたので。。。。
そしてビーストパーティです。
旦那が入院したままなら二日間参戦したいと思っていました。
ずっとずっと恨みと憎悪と悪意に満ちた家に姑と二人でいたわたしにそのくらいのご褒美くれても罰は当たらん!。と旦那に迫ってね。
結局旦那が7月の上旬退院になりまして、泊まりの遠征は諦めました。
「また明日な!」
とHYDEに言われると泣きたくなるくらい悲しくなるので行くなら二日目と決めていました。
ラグーナ以来のビーストパーティ。

何より感動的だったMY FIRST LAST。

この曲の歌詞にHYDEの生と死の狭間の想いが見て取れて、誰もがいずれ体験する間際の時の残していく者への溢れる想いに共鳴するのです。

この1曲のためだけでも行けてよかった。
元気な皆さんにあえて良かった。
そんな1日になりました。


ここからあと何を書こうとしていたのかな。。。
去年の夏の話。
遠き過去のようでつい最近のようでもあり。一周忌も終わって、今頃投稿します。

ブログを書かない事を心配してコメントくださった皆様。ありがとうございました。
これがお目につくといいのですが。。。いや、真っ黒な心をさらけ出してしまったので思いっきり引かれてしまったかも知れませんね。




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